アートスペースとしての廃校利用を考える②
アートによる廃校活用を、
にしすがも創造舎
NISHI-SUGAMO ARTS FACTORY
を具体的な事例として
見ていきたと思います。
廃校活用の先駆け、「にしすがも創造舎」。演劇や芸術の拠点として活用された12年 https://t.co/HAxMhresmN
— LIFULL HOME'S PRESS (@HOMES_PRESS) October 20, 2016
2016年に12年の歴史に幕を閉じました。
運営は家守事業と言われる形式で、
所有者は自治体ですが、運営は
アートネットワーク・ジャパン(ANJ)と
家守事業には、貸す側と借りる側の双方にメリットがある。貸す側の自治体からすれば、未使用の公共施設を有効に活用できるのみならず、外部団体の経験や知識に基づく発想に活用のアイディアを頼ることができる。借りる側からすれば、既存の施設を使用することでコスト面でのメリットがあるのみならず、社会問題ともなっている“廃校活用”には話題性があり、宣伝面での効果も期待できる。
権安理 廃校の可能性と公共性(立教大学コミュニティ福祉学部 紀要第18号2016)
運営までの経緯。
豊島区が体制を整備し、
文化支援事業を立ち上げました。
豊島区では2003年に、「地域社会に関わる多様な主体との協働」を進めるために、NPOや地域活動団体との協働事業の提案を募集した(水田ほか編 2011: 20)。また、同年に新たに設置された豊島区文化商工部文化デザイン課は、「豊島区文化芸術創造支援事業」を推進することを決定しており、このような流れの中で、上記二つのNPOの事業提案が受け入れられたのである(蓮池 2007: 21)(2)。
ANJは、稽古場運営と若手の育成をする企画、「芸術家と子どもたち」は、子どもを対象としたミュージアム事業(「まなびの場、あそびの場をつくる」)の企画というように、もともとは別の企画を提案していたが(水田ほか編 2011: 20)、双方の提案が豊島区に認められた。
にしすがも創造舎は、豊島区に、活用している廃校を現状復帰の状態で返還することを求められているために、大々的なリノベーションを行わず、教室、体育館、校庭をほぼそのままの状態で使っている。
権安理 廃校の可能性と公共性(立教大学コミュニティ福祉学部 紀要第18号2016)
アーティストにとっての意義
「場」と「関係性」
まずは、稽古場の確保という大きな意義がある。「公共施設を重い荷物を持って転々とし、借りられる場所があっても演劇禁止」ということもある。だが、にしすがも創造舎によって「たとえ一週間や10日でも集中して創作に励める劇団が増えたこと」には、極めて大きな意味がある。また、子ども、すなわち「飽きたり泣いたりする手ごわい観客」と対峙することで、アーティストにとって貴重な経験になるという声もあった(水田ほか編 2011: 45-46)。
権安理 廃校の可能性と公共性(立教大学コミュニティ福祉学部 紀要第18号2016)
地域住民にとっての意義
「場の存続」と「交流」
その学校の出身者にとっては、学校が残るというメリットがある。出身者にとっては、学校は単なる教育施設であるのみならず、“思い出”の場所である。地元を離れていた卒業生が帰郷した際に、(旧)朝日小学校に立ち寄り、にしすがも創造舎として活用されていることに驚きつつ喜んだというエピソードもある。
また、芸術をつくる、鑑賞するということにおいては、次のような特徴が際立っている。まずは、芸術創作プロセスに地域住民が参加することで、アーティストと地域住民の交流が実現したことである。また、地域住民の世代間交流も促進され、「江戸川乱歩」という地域資源を(再)発見するためのイベントもあった。
権安理 廃校の可能性と公共性(立教大学コミュニティ福祉学部 紀要第18号2016)
廃校という空間が生む効果
文化ホールや美術館ではなく、廃校という特殊な場であったことが、アートを取りまく状況に与える影響はあるのだろうか。例えばアーティスト側から創作に関して、次のような意見があった。普通の都内の稽古場と違い、そこには「良い意味での無駄な空間」がありリラックスできる。さらに教室や廊下など、「かつて馴染んだ空気感」があるために、「ゆっくりと創作できる環境がある」との声もある(蓮池2009: 10)。
さらに興味深いのは、廃校が活用されてこのような状況がつくられていく中で、アートと、観客もしくは鑑賞者との間に「あたらしい関係」がつくられたことである。文化施設や文化ホールでの演奏会に比べると敷居が低く、懐かしい場所である教室には、安心感から来る居心地の良さもあるだろう。
また、校庭で映画上映会が開催されたときには、周りに迷惑をかけない程度であれば会話をしながら鑑賞することも許された。映画が、映画館で座って静かに鑑賞するもの、あるいは家で私的に見るものから、公共の場でときに話をしながら皆で見るものへと、その性質を変えたのである。
つまり、アートと観客の関係が変化することで、ある意味でアートの性質それ自体までもが変容したのである。アートに対するアクセスが容易となり(=openとなり)、皆に共有され得る(=commonとなる)形態へと変貌したのである。
権安理 廃校の可能性と公共性(立教大学コミュニティ福祉学部 紀要第18号2016)
アートと経営
文化ホールや文化施設をつくるためには、当然ながら莫大な費用がかかる。それが公共施設であれば多額の税金が投入されているために、昨今では経営能力や採算性という観点が重視されるようになってきた。「ハコモノ批判」は、しばしば合理的な経営に帰結する。また特に、「現在の指定管理者制度という枠組み」に対しては、「業績向上や効率的経営の短絡的数値評価に縛られている」という指摘もなされている(藤野 2011: 327)。
したがってここで、「アート(芸術)と経営」の齟齬という問題が生じることになる。
アートと採算性、アートと経営や経済合理性との関係は、確かに難しい問題である。
権安理 廃校の可能性と公共性(立教大学コミュニティ福祉学部 紀要第18号2016)
これからの文化政策、
既存建造物の活用による場の整備
21世紀の芸術創造拠点は、必ずしも新設の施設でなくてもいいのだと筆者は考えている。創造するためには、何らかのアトリエ、ホール、稽古場などのスペースが欠かせない。音を出せたり、大道具を作ったり、夜遅くまで使えたりなど、創造的な環境を整える必要がある。しかし、バブル経済期に立てられた豪華な自治体文化施設の二の舞になってはいけない(松本 2011: 227-228)。
莫大な建設コストや維持管理費が、逆に事業予算の縮小を招くこともある。したがって考えるべきなのは、「既存の場の活用」ということになる(松本 2011: 228)。では、その「既存の場」を、どこに見出すことができるのだろうか。
松本は、「人々の記憶が集合された地域や場所」がそれに相応しいとも主張しているが(松本2011: 228)、廃校はこれら全ての基準に合致するのではなかろうか。
権安理 廃校の可能性と公共性(立教大学コミュニティ福祉学部 紀要第18号2016)
最後に
2回にわたってアートによる廃校活用の
意味を様々な視点から見てきました。
アート分野が抱える課題やニーズを、
廃校が持つ特徴がカヴァーできつつ、
所有者である自治体や地域住民にとっても
プラスに働くことを示唆してくれました。